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About Us

塩船について

「伊豆稲取」高橋弘明
江戸時代の廻船・弁財船。のちに千石積(約150t)以上のものが主流となり“千石船”とも呼ばれた。

灯台の先、「海の道」がつなぐ物語。

“塩船”は江戸時代から明治にかけて活躍した「尾州廻船」の買積活動を再解釈したリデザインブランドです。尾州知多の源泉を探りながら、知多半島と寄港地の価値ある品と地域の記憶をお届けしていきます。

市場ニーズを捉えながら地域の特産品を育み、必要な品を産地で買い付けた、尾州廻船の船頭や船主らの役割を現代的に捉え直し、尾張地域や寄港地の品をプロデュースしていきます。

「富士三十六景 東都佃沖」歌川広重
STORY

塩船とは

“塩船(shiofune)” の名称は、知多半島に伝わる俗謡の塩船を元にしています。

“内海米船、野間塩船よ、
なべやひろ荷でとどめさす”

知多半島でうたわれたと伝わる俗謡

その昔、野間の塩廻船は”塩船(シオブネ)”と呼ばれていたそうです。
積み荷の種類を指したこの歌は、内海(現:南知多町)は尾張藩などの米、野間(美浜町)は瀬戸内の塩などを主に扱い、「なべやひろ荷」の “なべ”は焼き物で有名な常滑市を指し、拾い荷=買積(各地で買い付けした荷)の取り扱いが多かったという特徴を示しています。

The shipping trade “Bishu-kaisen”

廻船について

廻船は各地を結び、江戸のまちを支え、日本の物流に大きな役割を果たしました。さまざまな浮世絵にも、その姿は生き生きと描かれています。

東西の都の中心に位置し、伊勢湾・衣浦湾という天然の良港のおかげで、水運の技術に優れた知多半島。
日本海側の北前船、太平洋側の菱垣廻船や樽廻船と並び、知多半島を本拠地とする廻船たちもまた、江戸までの海上を行き交いました。

歌川広重 大阪安治川口
東都名所高輪廿六夜待遊興之図
“Bishu-kaisen”

尾州廻船の果たした役割

こうした尾張地区の廻船集団は「尾州廻船」と呼ばれました。
江戸〜明治の頃には内海、野間や小野浦、大野や半田・亀崎など各地の大小の船が伊勢湾内外を行き交い、塩や米、酒や酢、みりんや瓦、肥料などを運びました。
買積船は、時には瀬戸内を超え下関を周り、日本海側や北陸まで足を伸ばしたそうです。
江戸の暮らしを支えるとともに和食など、現在に通じるさまざまな日本文化を育くんでいきました。

こうした尾州廻船の活躍もあって、半島でありながら先端の文化にも触れ、電気や郵便、鉄道なども早期に到来するなど、知多半島は大きく栄えました。
木曽や奥三河からの流域のもつ資源や木工技術、木綿業などが現在の自動車や航空機などの製造業にも繋がる “ものづくり”の土壌を肥やしてきました。
塩船は、一次産業や観光産業だけではない、知多半島の先人たちが果たした役割に光を当て、再興する取り組みを進めていきます。

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